TTWAさんの思考成果物置き場

健やかな26歳男性が考えたことについて、ふんだんに主観と詭弁と出任せを交えて適当になぐり書きします。真に受けないでください。

「善悪」について考える回

※このブログは日頃文章にロクに触れていない人間が哲学を修めていないのに哲学っぽいことを語ったり心理学を修めていないのに人の行動心理っぽいことを語ったりする詭弁満載ファンタジーブログです。以下の「はじめに」を読んでご理解いただけた方のみ鼻でもほじりながら読んでください。

https://ttwa.hatenablog.com/entry/2019/09/04/210153

 

 

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こんにちは、TTWAです。

今日は「善悪」について考えていきましょう。

なお今回も日頃悶々と考えていることを備忘録的に書きます。内容はないです。

今回は記事全体で約4600文字。相変わらず書いて満足したので推敲も何もしていません。思考断片なので支離滅裂ですが、まぁゆるりと楽しんでもらえれば。

 

 

 

○序論

近頃、このような話を耳にします。

「自分の腹黒さを正しく使って、利益を得た」「ある人の常識はずれな思考によって私は救われた」という話。

どちらも、おそらくマザーテレサ的な善性100%文脈で言えば二度と青空を見れないくらいぶん殴られる価値観なのでしょうが、一方で誰かの悪性によって救われる人間もいるのは無視できない事実です。

何故なら、社会規範は飽くまでも「普遍的な社会」という枠組みにおいて定義された善悪であって、一個人の人生であったり本能的な某においては善にも悪にも成り得るからです。

では、社会規範を脱して考えた時にある「本当の善/悪」というものは、一体何なのでしょう。どうすれば普遍性の鎖から開放された善人になることができるのでしょう。そんなことについて、善と悪の定義からつらつらと考えてみます。

 

○"善/悪"とは

善を知るためには、悪を知らなければなりません。また、悪を知るためにも善を知らなければなりません。光があるから影があることを知覚するように、ある事象をできるだけ正確に理解するためには、その対極にある価値観の両方を理解することが肝要です。善人になりたいからって、善ばかり考えているのはよくないということです。

 

まず善を紐解いていきましょう。

一般的に善性というのは、自己犠牲などに代表される、「自分のリスクは厭わずできるだけ他人にリスクをかけずに物事を為し得ること」であると考えられます。例えば災害時に出てくる募金というのも、ある意味被災者にリスクをかけずに自分がカネを払うというコストを通して他者を援助します。言い換えると、自らコストを負うことによって他者のリスクをカヴァーする構造です。あるいはマザーテレサのように、自らの人生を賭すというコストをかけて他人の教育に尽力するという、ある種命までもを削った究極の善も存在します。

だとすれば。悪の定義として最も肝要なのは、「相手にコストを負わせること」です。

例えば詐欺は、「事故を起こしたからお金を振り込んでほしい」と発生した偽のコストを相手に背負わせ、そのコストであるお金をリターンとして自らが手に入れるというものです。あるいは強姦事件というのも、被害者に精神的肉体的リスクを多大に背負わせながら、そのリターンである性欲の解消を犯人だけが得るような構図です。

コストやリスクをかけてリターンを得るというのは多くの人が共感できる社会の普遍性ですが、このコスト/リスクとリターンを誰に配置するかというのが、善悪を決定づける大きな要因ではないかと考えられます。

つまり、善とはコストを自分にリターンを相手に置くことで、悪とはコストを相手にリターンを自分に置くことだと言えるのではないでしょうか。

 

○ひとりよがりの善

先程の善悪の定義を思うと、実はより難しいものが善であると考えることができます。

なぜなら、リターンを配置する場所が"相手"であるからです。

例えば身近な善として、誕生日プレゼントを考えてみましょう。

 

XX歳のAさんの誕生日、Bさんがサプライズでちょっとした小物入れをプレゼントしてくれました。しかし、その小物入れはAさんの趣味に全く合わないデザインで、何なら別に小物入れなんて必要としてないしわざわざ使いみちを作るのも面倒くさい。結局Aさんはそれを部屋の隅っこに2年位使わずに放置して、ある日の断捨離で捨ててしまう…

 

至ってありふれたケースだと思いますが、ここに善にまつわる注意すべきことがあります。それは「相手にしっかりとリターンを与えること」です。

たしかに上述のケースにおいてBさんはお金や選ぶ手間をかけて小物入れを入手していることから、Bさんはしっかりとコストをかけることをしています。これは善の命題の片側の実践です。しかしながら、プレゼントを受け取ったAさんが、デザインが好みとかちょうど欲しい使いみちがあったとか、そういうベネフィットが一切無い状態となってしまいました。つまりこれは、適切なリターンを得られていないというわけです。これでは、善の命題の両側を完全に実践することはできていません。

それどころか、Aさんの目線で言えば、要らないものをどうしようか考えて最後には捨てる手間というコストを負わされています。これは、立派な悪の命題の片側です。さらに、Bさんは誕生日プレゼントをあげるということで、Aさんに対して何か施しをしてやったぞという充足感というリターンを得ています。これも、立派な悪の命題の片側です。つまり、Bさんが善を実践しようとした結果かえって悪の定義を満たしてしまったケースと言えるでしょう。

 

このように、しばしば善人になろうとする人が結果として悪を実践し続けているケースというのは散見されます。恋愛をはじめとした人間関係でも、社会奉仕的な活動でも、何ででも。

何故こうなるのか?僕はその答えは、「自分の目線でしか善を解釈していないから」と思っています。自分の目線で言えば、善は相手になにかしてあげることで悪は相手に何かをさせることなので、相手になにかしてあげればそれは善と言えるでしょう。しかし、それによって相手に適切なリターンを与えられていなければ善の命題は満たせないし、それどころか善行をしている充足感を得ている意味では悪人にすらなってしまいます。このような善行をしていると思いこんでいる悪人を、偽善者と呼ぶのではないかと思います。

 

 

○善と悪の重なり

ここまでで考えてきた善悪の定義ですが、対極にある善と悪は水と油のように交わらないものなのでしょうか。

ここまでで語ってきた定義を真とするならば、この答えは明確にNOです。

何故なら、例えば"自分"の目線で語れば善のコストをかけることと悪のリターンを得ることは独立な事象として存在するからです。これは"相手"の目線でも同様です。

つまり、善行をしながら相手にコストをかけさせることも、悪行をしながら相手にリターンを与えることも、可能なのです。

例えば、お酒好きの友人を自分が気になっているバーに誘うことを考えてみましょう。ここでは、まず自分が友人を誘うことで、自分は「友人と酒を飲めて、しかも気になっているバーに行くこともできる」という利益を得、友人は「誘いに乗ることで金と時間を費やすことになる」というコストを負います。この時点では悪の命題を満たしています。しかしながら、同時に自分は「ハズレのバーを引くかもしれない、そういう場所に金も時間も溶かすし友人関係も微妙になるかもしれない」というリスクを背負い、友人は「知らない思わぬ良い場所を知ったり、友人やマスターと会話しながら少し悩み事を相談して、救われるかもしれない」というリターンも考えられます。これは完全に善の構図です。

つまり、善と悪はまさに同時に存在することが可能な概念なのです。

 

大抵の人は無意識の内にこの善と悪の重なる点を見つけて、双方にリターンが生まれるように行動をすることがあります。上記の「知らない店に飲みに誘う」もそうです。ハイリスクハイリターンのような言葉が表すようにコストを掛けなければリターンが生まれない世の中で、我々は無意識のうちに自分でコストを背負い相手にコストを背負わせながら、自分を含むできるだけ多くの人にリターンがもたらされるように行為しています。

しかし、「善行をする」という点を考え始めると、途端にそういう人々は悪を敵視しはじめます。善行のなかにひとつでも悪らしい要素が見えれば全力で攻撃しようとします。セレブが難民に寄付したり、政治家が被災地を訪問したり、タレントがおすすめのサプリを紹介したり、そういうところにある裏を見て斬りたがります。売名行為ではないか、裏で動かしている大人がいるのではないか、本当に心からそれをしているのか、といった具合です。

もちろん、実際に裏に巨大な悪があってそこに動かされている人がいることも事実です。しかしながら、こういう時こそ考えるべきは「それは本当に悪だけなのか、善も含まれているのではないか」ということです。これは善と悪が共存できることに気づかなければできない発想です。セレブが難民に寄付することで難民は救われ、政治家が被災地を訪問することで政治として被災と向き合えることは、対象にとっても立派なメリットとなるでしょう。一方で例えばタレントが全く効果のないサプリの宣伝をしていたとすれば、それは"相手"となる顧客に一切のメリットを与えないことからも、悪のみのものと言えます。

このように、善と悪が共存することをうまく頭に置いて、物事を冷静に考えることも重要です。

 

○最後に -善い悪人になりたい-

世の中にある大抵の物事は、ある2つの点の中間にあります。例えば美味しいものを食べたいという欲求は味を求める理性的な部分と食欲という本能的な部分の中間に位置しています。グレーという色は、白と黒の中間に位置しています。それと同様に、ほとんどの行為というものは善悪の中間のどこかに位置しています。

善悪の中間に位置するということは、自分も相手もリスクを背負い、リターンを得るということです。

しかしながら、相手のために善行をしようと考えた時に我々はうっかり、相手にリスクを背負わせることを忌避してしまいます。全員がそうではないですけど、自分を含めて、ついそうしてしまう人は多いのではないでしょうか。できるだけ散らばったリスクを自分にかき集めて、絞って出てきたリターンを相手に渡すことをついついしがちです。

しかし、考えなければならないことは、リスクの総量を超えるリターンが生まれることはなく、むしろリスク未満のリターンしか得られない事象が大半であることです。ローリスクハイリターンは存在しなくともハイリスクローリターンはいくらでも存在することです。

そして、自らの抱えられるコストの総量にも限界が、必ずどこかであります。そんなときには相手にもリスクを多少でも背負ってもらって、一緒に高いリターンを得られるように行動することが、実は相手に最大のリターンを与えるうえで、最も重要なことなのではないでしょうか。そうしながら自分もリターンを得てwin-winの関係を築き続けることが、全員が幸せになる最も重要な要素なのではないでしょうか。

相手にリスクを背負わせながら、自らもリスクを背負って、そして全員ででっかいリターンを得る。そんな「善い悪人」に、なりてぇもんです。

 

今回は以上です。それでは。