TTWAさんの思考成果物置き場

健やかな26歳男性が考えたことについて、ふんだんに主観と詭弁と出任せを交えて適当になぐり書きします。真に受けないでください。

世界について考える回

※このブログは日頃文章にロクに触れていない人間が哲学を修めていないのに哲学っぽいことを語ったり心理学を修めていないのに人の行動心理っぽいことを語ったりする詭弁満載ファンタジーブログです。以下の「はじめに」を読んでご理解いただけた方のみ鼻でもほじりながら読んでください。

https://ttwa.hatenablog.com/entry/2019/09/04/210153

 

 

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どうもTTWAです。

今日は世界について考えていきたいと思います。

ここでの世界は「196カ国」というよりは、我々が今認識している「現実」を指したりします。何が言いたいかというと、ものすごく無実体な世界を考えていきます。

個人的な現時点での結論を先に書いておくと、「世界ってマジで無限にあるので頑張って常に認識していこうな」です。これで満足された方は鼻をほじるのをやめてブラウザをそっと閉じてください。

なお、本記事は約4900文字くらいです。前回の「ショーパブに行った25歳童貞が愛について考える回」は6000字程度でした。そんな感じの分量です。お前はショーパブについてどんだけ語っとるねん。

また、前回のように何かの衝撃から思索したというよりは日頃悶々と考えていることを文字に起こしただけなので、前回以上に話題があちこちに飛びます。許して。

では、やっていきましょう。

 

 

○「現象の世界」と「認知の世界」

今僕の目の前にはパソコンがあり、キーボードを打ってこのブログを書いています。同時に裏でYoutubeで流しているVulfpeckというバンドの曲をスピーカーが鳴らしています。

しかし、今自分の目の前に起こっているこれらのものたちに対して、果たして僕は正確に認識できているのでしょうか。

「いや目の前にあるんだったらそれで正解じゃないか」と思われるかと思いますが、実際僕の目の前にあるのは「何か発光している物体」「押すと某が入力される物体」「何らかの音波を発する物体」のみです。この「物体」とか「発光している」とかいう観念も正確かどうか怪しいです。

それは何故かと言うと、「私達は目の前に起こっている現象」を「何かしらの感覚器官等で認知すること」で、「今目の前の世界で何が起こっているか」を理解するからです。

これは言い換えれば、「現象」を"私の感覚"を媒介することで「認知」する、と言えます。

つまり、少なくとも今"私"の目の前には「現象がただある世界」と「"私"が認知した世界」が並行して存在するわけです。

 

 

○"緑色の葉っぱ"は本当に"緑色の葉っぱ"なのか?

小学生の時、校庭に植えられている木の葉っぱを見て、こう思ったことがあります。

「もし自分がこの緑色の葉っぱを"これは赤色の葉っぱだよ"と生まれてから今まで教え続けられたとしたら、僕はこれを"赤色の葉っぱだ"と疑いなく思うだろうか。」

当時何故そんなコトを思ったのかは自分でも本当によくわかりませんが、しかしこれは今思い返してもかなり興味深い疑問に思います。

何故なら、「何らかの色や形や質量をした存在があるという現象」を、"これは緑色で、葉っぱだ"という認識を持って「私の認知の世界」に投影する姿を、ありありと捉えているからです。

我々は"緑色"や"葉っぱ"というレンズを介して現象を覗き込むことで、ようやく「緑色の葉っぱ」を認知するに至るのです。逆に言えば、我々は「緑色の葉っぱだ」というレンズで覗き込むことでしか、その"緑色の葉っぱ"を自らの世界に現すことができないと言えるでしょう。

もし僕が小さな頃に読んだ絵本で"緑色"のことを"赤色"と教えられたら?きっと僕の世界においてそれは赤色の葉っぱになったのかもしれません。

 

 

○地球が平らだった時代

皆さんは地球がどんな形をしているか、知っていますか?

「馬鹿言え、そんなの球形に決まっているじゃないか」と皆さん答えるでしょう。幸い我々は多くの先人の研究や経験によって、この地球という現象の上では少なくとも重力に引っ張られながら真っすぐ進んだらどこかで一周することを知っています。

しかし過去にはこれと異なった認知が為されてきました。地球平面説というやつです。きっとどこかで聞いたことがあるでしょう、地球は平面でどこかに端があったり取り囲んでいる海は無限遠まで広がる、みたいなやつです。詳しくはWikipediaでも見てください。

ここではどちらかが物理的に真であるとかは語りません。めんどくさいので。

ただここで注意したいことは、ある時代には多くの人にとって確かに「地球は平面であった」ということです。そして現代に生きる多くの人にとっては「地球は球形である」ということです。

現象としての地球は少なくとも人間が誕生してからの期間では変わらず今の形を為しているでしょうが、異なる時代での「認知の世界」においては、地球は平面でもあり、また球体でもあったということです。

つまり、「地球が平面の世界」も「地球が球体の世界」も「地球がただ現象として存在する世界」も、確かに存在しているということです。

 

 

○「認知の世界」は無限に存在する

ここまでで語ったように、人は現象を何らかの形で認知することで、ものを「現象の世界」から「認知の世界」に落とし込みます。

また、その認知の世界も時代や教育などによっていかようにも変化します。

先程は"緑色の葉っぱ"や"球形の地球"などの比較的多くが同じ常識を持っているテーマで論じましたが、例えばそれが「パクチーサラダの味」だったとすると、パクチーサラダという存在する現象とは別に、さらに個人の感覚で「好き」「嫌い」「普通」とわかれるでしょう。また、僕はパクチーを食べたことがないので、僕の認知の世界においては「パクチーサラダの味」というのは存在していません。そして、この「パクチーサラダの味」を「森羅万象に関する何らか」まで裾野を広げたとすると、今まで生きてきた、今生きている、これから生まれる人間の数だけ無限に世界は誕生すると言えます。

このように、現象としての世界はいつだって一つですが、それを五感を通すことで無限に存在する「認知の世界」に落とし込まれるのです。

 

 

○「認知の世界」は定義する場所

現象の世界というのは、いつだって同じです。例えば人間は電気を見つけて文明を豊かにしましたが、別にそれは人間が電気という現象を生み出したのではなく、単にすでに現象としてあった電気を人間が見つけ出したに過ぎません。そういう意味では現象の世界は不変と言えるでしょう。

しかし、「認知の世界」というのは、いかようにも変化させることができます。先程僕はパクチーサラダを食べたことが無いと言いましたが、これを明日どこか梅田あたりの店を探して食べることができれば、僕の認知の世界に「パクチーサラダの味」は新たに誕生することでしょう。それが"美味しい"や"不味い"などのどれになるかは別として。

このように、今まで知らなかった新たな現象を知覚することによって、「認知の世界」にはあらゆる現象を偏見を介して定義することができるのです。

また、僕の「認知の世界」では現状「アイドルグループ」というのは全く興味の対象でないのですが(この理由は今回割愛します)、衝撃的な体験によって「アイドルグループ」が僕の認知の世界に定義され直して人生かけて大好きな存在になるかもしれません。

このように「認知の世界」は、自分でいかようにも定義し直し、作り変えることができる場所なのです。

 

 

○"自分の世界"は"自分"しか生きられない

我々は同じ世界に生き、共同して暮らしています。みんなそれぞれ助け合う小さな世界です。イッツ・ア・スモールワールドです。ハハッ。

しかしこれは現象的な、あるいは社会的な意味での世界のことです。認知の世界においては同じ世界に生きることはありません。何故なら私は私であって、自分の視界や味覚や認知はどうあっても自分のものであるからです。

言い換えると、"自分の世界"はどうあがいても自分しか生きることができず、その世界をよくするかどうかはすべて自分次第なのです。

もちろん他人の影響によって自分の世界が変わることはありますが、それは「他人からの影響」を「自分が認知すること」によって世界が変わっているのであって、結局自分の世界を変えられるのは自分の世界の創造者たる"自分"によってのみなのです。

 

 

○他人の"世界"を変えることは必要なのか?

自分の世界に自信がある人は、他人の世界を移す認知のレンズを自分のモノに入れ替えたがります。童貞に対して「風俗に行ってでもヤってこい」とか、メタルを聴いたことが無い人に対して「NWOBHM以外は音楽じゃないからな」とか、恋愛に生きる女の子が「彼氏いなくて生きてる意味あるの?」とか、毒親が「この進学校に通って東京大学に行きなさい」が、そうでしょう。

そういう人たちはこれらの言説を、あたかも他人のためであると考えがちです。

しかし、本当にそうでしょうか。この言葉たちは他人の世界を変えるための一言として機能させているのでしょうか。

その答えは、僕はNOだと思っています。僕にとっては、そういう人たちは「自分の世界に従属する存在を増やしたいだけ」に思えます。自分の中にある常識を押し付け、他人の世界を侵食し、自分の世界の領土を増やすことに躍起になっていると思えてならないのです。

そして、自分の世界の領土を広げることというのは、自分の認知に対して何も定義せず、何も定義し直していない点を考慮すると、全く自分の世界の変化にもなっていないのです。

認知することで築かれる世界にとって、領土を広げることは繁栄を意味しなければ、定義の停止というのはすなわち世界の停止であり、むしろ衰退することを意味すると僕は思っています。

他人の世界を侵略する暇があるなら、自分の世界をより良くするべきです。

そして、その自分の世界によって他人の世界に影響を与え、それによって他人がその人にとっての"自分の世界"を変えることを誘発していくべきです。

 

 

○"自分の世界"を良くするということ

自分の世界をより良くするためには、何をすれば良いのでしょう。

僕はそれを実現するためには、2つの鍵が存在すると思っています。

1つ目は、「認知の世界が無限にあることを知ること」です。つまりこれは現象を多角的に見ることを知ることです。地球が平面と思っていたという人や、パクチーサラダの好き嫌いがあることを認めることです。それらを決して無駄に攻め立てて相手の世界を侵略しないことです。多角的に見るとは、多様性を認めることです。多様ななかの自分の世界を見つめることで、自分の世界はより開けたものになるはずです。

2つ目は、「絶えず定義し、定義し直すこと」です。つまりこれは新たな目線を常に持って物事に触れることです。自分の世界にとって良いもののより良い部分を知り、嫌なものの中に隠れた良い部分を知ることは、定義して定義し直し続けることでしか起こりえません。また、何度定義し直してもダメだった場合はそれを自分の世界になかったことにすることもできます。そうして、自分の世界をより自分が住みよい世界に変えることができるのです。つきなみな言葉で言えば「ものは考えよう次第」です。しかし考えようを定義し直すことでものの見方を変えることもまた、肝要なように思います。

 

 

○最後に

今回は世界について思っていることをつらつらと書きました。なんかまとまらねぇし最後は説教臭い文章になりましたね。反省。

もちろんこの文章も絶対的なものではなく、僕の認知の世界の中にある経典を適当に読み上げただけにすぎません。しかしながら、これによって少しでも世界ってなんだろうという感覚がわかっていただけるといいなぁという、そんくらいの気持ちです。

 

今の僕の認知の世界にある経典にはこう書かれていると文章にしたためて知った以上、今の自分はこれを教訓にひとまず生きていこうと思います。

まずは自分の認知の世界にセックスとか彼女とかを定義しろよ、25歳彼女なし童貞よ。