TTWAさんの思考成果物置き場

健やかな26歳男性が考えたことについて、ふんだんに主観と詭弁と出任せを交えて適当になぐり書きします。真に受けないでください。

「善悪」について考える回

※このブログは日頃文章にロクに触れていない人間が哲学を修めていないのに哲学っぽいことを語ったり心理学を修めていないのに人の行動心理っぽいことを語ったりする詭弁満載ファンタジーブログです。以下の「はじめに」を読んでご理解いただけた方のみ鼻でもほじりながら読んでください。

https://ttwa.hatenablog.com/entry/2019/09/04/210153

 

 

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こんにちは、TTWAです。

今日は「善悪」について考えていきましょう。

なお今回も日頃悶々と考えていることを備忘録的に書きます。内容はないです。

今回は記事全体で約4600文字。相変わらず書いて満足したので推敲も何もしていません。思考断片なので支離滅裂ですが、まぁゆるりと楽しんでもらえれば。

 

 

 

○序論

近頃、このような話を耳にします。

「自分の腹黒さを正しく使って、利益を得た」「ある人の常識はずれな思考によって私は救われた」という話。

どちらも、おそらくマザーテレサ的な善性100%文脈で言えば二度と青空を見れないくらいぶん殴られる価値観なのでしょうが、一方で誰かの悪性によって救われる人間もいるのは無視できない事実です。

何故なら、社会規範は飽くまでも「普遍的な社会」という枠組みにおいて定義された善悪であって、一個人の人生であったり本能的な某においては善にも悪にも成り得るからです。

では、社会規範を脱して考えた時にある「本当の善/悪」というものは、一体何なのでしょう。どうすれば普遍性の鎖から開放された善人になることができるのでしょう。そんなことについて、善と悪の定義からつらつらと考えてみます。

 

○"善/悪"とは

善を知るためには、悪を知らなければなりません。また、悪を知るためにも善を知らなければなりません。光があるから影があることを知覚するように、ある事象をできるだけ正確に理解するためには、その対極にある価値観の両方を理解することが肝要です。善人になりたいからって、善ばかり考えているのはよくないということです。

 

まず善を紐解いていきましょう。

一般的に善性というのは、自己犠牲などに代表される、「自分のリスクは厭わずできるだけ他人にリスクをかけずに物事を為し得ること」であると考えられます。例えば災害時に出てくる募金というのも、ある意味被災者にリスクをかけずに自分がカネを払うというコストを通して他者を援助します。言い換えると、自らコストを負うことによって他者のリスクをカヴァーする構造です。あるいはマザーテレサのように、自らの人生を賭すというコストをかけて他人の教育に尽力するという、ある種命までもを削った究極の善も存在します。

だとすれば。悪の定義として最も肝要なのは、「相手にコストを負わせること」です。

例えば詐欺は、「事故を起こしたからお金を振り込んでほしい」と発生した偽のコストを相手に背負わせ、そのコストであるお金をリターンとして自らが手に入れるというものです。あるいは強姦事件というのも、被害者に精神的肉体的リスクを多大に背負わせながら、そのリターンである性欲の解消を犯人だけが得るような構図です。

コストやリスクをかけてリターンを得るというのは多くの人が共感できる社会の普遍性ですが、このコスト/リスクとリターンを誰に配置するかというのが、善悪を決定づける大きな要因ではないかと考えられます。

つまり、善とはコストを自分にリターンを相手に置くことで、悪とはコストを相手にリターンを自分に置くことだと言えるのではないでしょうか。

 

○ひとりよがりの善

先程の善悪の定義を思うと、実はより難しいものが善であると考えることができます。

なぜなら、リターンを配置する場所が"相手"であるからです。

例えば身近な善として、誕生日プレゼントを考えてみましょう。

 

XX歳のAさんの誕生日、Bさんがサプライズでちょっとした小物入れをプレゼントしてくれました。しかし、その小物入れはAさんの趣味に全く合わないデザインで、何なら別に小物入れなんて必要としてないしわざわざ使いみちを作るのも面倒くさい。結局Aさんはそれを部屋の隅っこに2年位使わずに放置して、ある日の断捨離で捨ててしまう…

 

至ってありふれたケースだと思いますが、ここに善にまつわる注意すべきことがあります。それは「相手にしっかりとリターンを与えること」です。

たしかに上述のケースにおいてBさんはお金や選ぶ手間をかけて小物入れを入手していることから、Bさんはしっかりとコストをかけることをしています。これは善の命題の片側の実践です。しかしながら、プレゼントを受け取ったAさんが、デザインが好みとかちょうど欲しい使いみちがあったとか、そういうベネフィットが一切無い状態となってしまいました。つまりこれは、適切なリターンを得られていないというわけです。これでは、善の命題の両側を完全に実践することはできていません。

それどころか、Aさんの目線で言えば、要らないものをどうしようか考えて最後には捨てる手間というコストを負わされています。これは、立派な悪の命題の片側です。さらに、Bさんは誕生日プレゼントをあげるということで、Aさんに対して何か施しをしてやったぞという充足感というリターンを得ています。これも、立派な悪の命題の片側です。つまり、Bさんが善を実践しようとした結果かえって悪の定義を満たしてしまったケースと言えるでしょう。

 

このように、しばしば善人になろうとする人が結果として悪を実践し続けているケースというのは散見されます。恋愛をはじめとした人間関係でも、社会奉仕的な活動でも、何ででも。

何故こうなるのか?僕はその答えは、「自分の目線でしか善を解釈していないから」と思っています。自分の目線で言えば、善は相手になにかしてあげることで悪は相手に何かをさせることなので、相手になにかしてあげればそれは善と言えるでしょう。しかし、それによって相手に適切なリターンを与えられていなければ善の命題は満たせないし、それどころか善行をしている充足感を得ている意味では悪人にすらなってしまいます。このような善行をしていると思いこんでいる悪人を、偽善者と呼ぶのではないかと思います。

 

 

○善と悪の重なり

ここまでで考えてきた善悪の定義ですが、対極にある善と悪は水と油のように交わらないものなのでしょうか。

ここまでで語ってきた定義を真とするならば、この答えは明確にNOです。

何故なら、例えば"自分"の目線で語れば善のコストをかけることと悪のリターンを得ることは独立な事象として存在するからです。これは"相手"の目線でも同様です。

つまり、善行をしながら相手にコストをかけさせることも、悪行をしながら相手にリターンを与えることも、可能なのです。

例えば、お酒好きの友人を自分が気になっているバーに誘うことを考えてみましょう。ここでは、まず自分が友人を誘うことで、自分は「友人と酒を飲めて、しかも気になっているバーに行くこともできる」という利益を得、友人は「誘いに乗ることで金と時間を費やすことになる」というコストを負います。この時点では悪の命題を満たしています。しかしながら、同時に自分は「ハズレのバーを引くかもしれない、そういう場所に金も時間も溶かすし友人関係も微妙になるかもしれない」というリスクを背負い、友人は「知らない思わぬ良い場所を知ったり、友人やマスターと会話しながら少し悩み事を相談して、救われるかもしれない」というリターンも考えられます。これは完全に善の構図です。

つまり、善と悪はまさに同時に存在することが可能な概念なのです。

 

大抵の人は無意識の内にこの善と悪の重なる点を見つけて、双方にリターンが生まれるように行動をすることがあります。上記の「知らない店に飲みに誘う」もそうです。ハイリスクハイリターンのような言葉が表すようにコストを掛けなければリターンが生まれない世の中で、我々は無意識のうちに自分でコストを背負い相手にコストを背負わせながら、自分を含むできるだけ多くの人にリターンがもたらされるように行為しています。

しかし、「善行をする」という点を考え始めると、途端にそういう人々は悪を敵視しはじめます。善行のなかにひとつでも悪らしい要素が見えれば全力で攻撃しようとします。セレブが難民に寄付したり、政治家が被災地を訪問したり、タレントがおすすめのサプリを紹介したり、そういうところにある裏を見て斬りたがります。売名行為ではないか、裏で動かしている大人がいるのではないか、本当に心からそれをしているのか、といった具合です。

もちろん、実際に裏に巨大な悪があってそこに動かされている人がいることも事実です。しかしながら、こういう時こそ考えるべきは「それは本当に悪だけなのか、善も含まれているのではないか」ということです。これは善と悪が共存できることに気づかなければできない発想です。セレブが難民に寄付することで難民は救われ、政治家が被災地を訪問することで政治として被災と向き合えることは、対象にとっても立派なメリットとなるでしょう。一方で例えばタレントが全く効果のないサプリの宣伝をしていたとすれば、それは"相手"となる顧客に一切のメリットを与えないことからも、悪のみのものと言えます。

このように、善と悪が共存することをうまく頭に置いて、物事を冷静に考えることも重要です。

 

○最後に -善い悪人になりたい-

世の中にある大抵の物事は、ある2つの点の中間にあります。例えば美味しいものを食べたいという欲求は味を求める理性的な部分と食欲という本能的な部分の中間に位置しています。グレーという色は、白と黒の中間に位置しています。それと同様に、ほとんどの行為というものは善悪の中間のどこかに位置しています。

善悪の中間に位置するということは、自分も相手もリスクを背負い、リターンを得るということです。

しかしながら、相手のために善行をしようと考えた時に我々はうっかり、相手にリスクを背負わせることを忌避してしまいます。全員がそうではないですけど、自分を含めて、ついそうしてしまう人は多いのではないでしょうか。できるだけ散らばったリスクを自分にかき集めて、絞って出てきたリターンを相手に渡すことをついついしがちです。

しかし、考えなければならないことは、リスクの総量を超えるリターンが生まれることはなく、むしろリスク未満のリターンしか得られない事象が大半であることです。ローリスクハイリターンは存在しなくともハイリスクローリターンはいくらでも存在することです。

そして、自らの抱えられるコストの総量にも限界が、必ずどこかであります。そんなときには相手にもリスクを多少でも背負ってもらって、一緒に高いリターンを得られるように行動することが、実は相手に最大のリターンを与えるうえで、最も重要なことなのではないでしょうか。そうしながら自分もリターンを得てwin-winの関係を築き続けることが、全員が幸せになる最も重要な要素なのではないでしょうか。

相手にリスクを背負わせながら、自らもリスクを背負って、そして全員ででっかいリターンを得る。そんな「善い悪人」に、なりてぇもんです。

 

今回は以上です。それでは。

"CLIMAX"という映画を観ました(ネタバレ含)

 ※このブログは日頃文章にロクに触れていない人間が哲学を修めていないのに哲学っぽいことを語ったり心理学を修めていないのに人の行動心理っぽいことを語ったりする詭弁満載ファンタジーブログです。以下の「はじめに」を読んでご理解いただけた方のみ鼻でもほじりながら読んでください。

https://ttwa.hatenablog.com/entry/2019/09/04/210153

 

 

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どうも、TTWAです。

 

Twitterなどでチラチラと話題に挙がっている"CLIMAX"という映画を観ました。

http://climax-movie.jp/

 

友人たちは口を揃えてトリップ映画と言っていたり、ストーリー自体も山奥の小屋に集まってショーの練習をしていた22人のダンサーたちが、最終日の打ち上げパーティーで用意された"LSD入サングリア"によって徐々に崩壊していく…みたいなストーリーだったりと、結構な奇抜さを備えた映画。

あと僕は日頃映画を本当に観ない人(具体的に言えばこの10年で映画館に行ったのは2回だけ(CLIMAXとボヘミアン・ラプソディ)だし、家で観た映画も逆襲のシャアF91コマンドー(吹替版)くらいのもの)なのでよく知らないのですが、監督はかなり賛否分かれる過激な作品をつくることで有名なギャスパー・ノエという人だそう。まぁ僕はマジでこの人の他の作品を含め大抵の映画を観たこともないので、そういう映画批評的な話は何もできん。

ひとりの、ちょっとだけセックス・ドラッグ・バイオレンスな世界をドン引きせずに眺められてしまう人の、批評や考察ではなく、とりとめのない感想文です。

 

そんなわけで、少々のネタバレも交えながらやっていきましょう。

今回は記事全体で約4700文字。書いて疲れたから推敲はしてないので誤字があっても笑って許してね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

○冒頭のシーン

悲鳴とも笑いとも取れるような叫び声を上げながら雪の中を這う血まみれの女性、明らかに悲劇の末に斃れてしまった人のようで、これから起こる惨劇がどんなものなのかというピリっとした恐怖を与えられる。ここでまさかのクレジットが入り、すでに映画はさながらバッドエンドのエンドロール状態。今思うと「ある一人の結末」を描いたうえでエンドロール流してるから、物語の時系列的には一番最後なんだよな、あのシーン。

 

○インタビューシーン

舞台は急に転換して、今回の主役になる22人のダンサーのインタビューシーンへ。それぞれの持つダンスへの想いから野心、人生観、暴力、セクシャリティ、ドラッグの話まで、各人の持つ内に秘めた感情や狂気やを淡々と見せられる。

ぶっちゃけ登場する人間の数が多すぎて全員の顔と名前を一致させることは僕はできなかったんだけど、多分「そういう人たちの集まりである」ことだけ念頭に置いておけば、あとはいいかなと思う。

それにしても淡々と当然のようにドラッグやら過去の暴力やらの話をインタビュー中にしているのを今になって思い返すと、多分同じような狂気を孕んだうえで素知らぬ顔で生きている人って、意外と世の中沢山いるのかな、なんて。

仮にその狂いがドラッグや暴力のような違法なものでないにしろ、ね。

 

○ダンスシーン1

山奥の廃墟をベースにした建物でダンスパフォーマンスの練習をするシーン。

ここは素直に凄まじいパフォーマンス。

実際キャスティングは一部除いて演技経験もないダンサーを起用しているというだけあって、ものすごいパフォーマンス。アイドルグループのような全員が一致団結して踊ると言うよりは、強すぎる個性を持ったダンサーたちが水と油のように混じらず、しかし共存してひとつの混沌とした芸術を極めている感じ。

インタビューシーンでもあったような決して「皆で頑張ります!」みたいな協調性よりもそれぞれの野心や人間性の違いが強調されていたことを、ダンスを通じて見せられた感覚。

そして何より、彼らは狂人の集合体ではなく飽くまでダンサーの集まりであることも、ここで認識させられたり。普通の人なんですよ。ドラッグ経験者や暴力経験者がいるだけで。彼らは狂おうとして狂うわけでない。

 

○会話シーン

執拗に細切れに、そこそこ長い時間、誰かと誰かの会話がずっと流れている。

基本的にはずっとセックスの話。誰とヤりてぇとか誰とヤったとかスキャンダラスな話とかセクシャリティな話とか、そういう下品で欲望的な側面をゆっくりと脳に装填されていく感覚。裏を返せばずっと起伏が無いのである意味退屈なシーンでもあるんだけど(実際僕も途中で何見せられてんだろ…ってなった)、今思うとそういう欲望や狂気に対して少しずつ準備運動をさせられているというか、離陸前のシートベルトというか、そういう感じだったのかなという気もする。

このシーンがなければ、このあとの地獄のフライトは事故死していたのでしょう。

 

○ダンスシーン2

カメラアングルが目まぐるしく変化したダンスシーン1と異なり、ダンサーが作ったサークルの中でダンサーが即興で踊る姿を真上アングルから捉え続けるシーン。

これもまた結構長いシーンで、真上アングルで天地感を少しずつ奪われ、流れ続ける音楽に脳を希釈されながら、パーティーの熱狂に没入していく感じ。

さっきの会話シーンがシートベルト着用のアナウンスなら、このシーンはこの後のバッドトリップ飛行に向けて、滑走路を走り出したようなものと言えるだろうか。

 

○そして舞台は混沌へ…

ちょっとハイになりすぎている、何かがおかしい、そう湧き立つダンサーたち。

何か薬物が、LSDか何かをサングリアに混ぜられたのではないかという疑念が徐々に表れ、次第に誰かが誰かを疑い始めて犯人探しになったり錯乱したり暴力が起こったりそんなのに構わずに踊り続けたりという狂気の世界へ。

このシーンに来る頃には脳はしっかりと音楽で麻痺させられて、シートベルト着用で無事に離陸に成功した状態なので、狂気がダイレクトに脳を直撃するには最高のコンディション。

混乱と混沌とビートのなかで、ドラッグの作用や疑心に悶える人の悲鳴を常にどこかで聴きながら、色々なダンサーの視点に目まぐるしく遷移し続けつつ、全員に逃げられない狂気がやってきていることを教えてくれる。

徐々に理性や知性が崩壊して、崩壊しているからこそ理知的に認識できない、本能的な狂気を頭にドバドバと流し込まれる。

錯乱していく末で男女、男男、女女問わずラブシーンが起こり、暴力が起こり、最後には常に誰かの背中を追いかけていたカメラアングルも天地も何も意味がわからないものになり、字幕も上下逆さに登場し、暗闇と赤い照明、ビートは鳴り続け、人が狂い、悲鳴、暗闇、赤い照明、セックス、ビート、暗闇、暴力、セックス、赤、狂い、悲鳴、ビート、ビート、

 

○ラストシーン

翌朝警察官がやってきた頃には、廃墟は地獄の燃えた後。

死んだ者、昏倒する者、眠る者、朝になってもなお踊り続ける者、意識を持って朝を迎えられた者、狂った末に雪の積もる外に飛び出した者(これが多分、冒頭の人)。

そして最後に、LSDに関する本とかの横で、目薬をさす一人のダンサー…

エンドロールは冒頭にやってしまったので、ここで映画自体が終了。

よくあるエンドロールでNGシーン集みたいな現実に戻るためのバッファがあればいいんだけど、そんな救済は与えてくれない。

無事に1分くらいは椅子から動けず、ただため息を漏らしていましたとさ。

 

○総評

理性をとことんまで溶かした脳に本能と狂気をドバドバ注がれてバッドトリップしていく、まさに観るドラッグ。見終わってから暫く明かりがやけに眩しく感じたり、やけに手指の動きや周りの音に敏感になったり、トリップの余韻が暫く消えない鮮烈さ。

物語の面でも、LSDというものが狂わせたとはいえ、怪奇現象や殺人鬼のようなあらかじめ用意された狂人なしに飽くまでも人間が人間らしい側面を持って堕ちていく様は、きっと誰しもがどこかに持っていて否定することもできずただ受け入れるしかない狂気があることをありありと見せつけられる。

 

個人的に驚いたことは、セックスがかなりの後半、精神が崩壊して堕ちきった頃にやってきたこと。

大抵の場合、セックスシーンって過程として描かれるじゃないですか。何か人間関係が起こり、セックスをし、それも経て何か次の段階に物語が進むというか。

でもこの作品では、セックスがむしろ堕ちきって全てが崩壊したときにやってくるんですよ。ある意味、全部精神をぶっ壊した「結果としてのセックス」なんですよ。理性を極限まで削った末に剥き出しになった人間の獣性として捉えられているようなんですよ。多分。知らんけど。

前半の会話シーンとかを見ていたときには「あ~中盤くらいでセックスパーティーになるんやろうな~」と思っていたんだけど、それは物語の上にある過程としてのセックスに慣れすぎていたからで、結果としての本能的獣性的なセックスでその前提を足元からぶっ壊してきたんですよ。それも、選択して理性を排除するのではなく、外力によって理性を破壊された末に。これには驚いた。本当に。

人間という一種の獣が、極限まで人間らしさを排除した時にどうなるか、そんなことも思わされましたね。

 

あと、これは僕の深読みなのですが、本当にあのサングリアにはLSDが入っていたのか?という疑問がずっと付き纏っています。

物語のあらすじには「彼らは、知らず知らずにLSD入りのサングリアを飲み、集団ドラッグ中毒に陥る。」って書いてるし、物語の最後にもLSD所持者がいたことをほのめかす描写もあるし(LSDは点眼薬として目から摂取することもあるそう)、多分疑う必要はないことなんだけど。

ただ、映画全編を通して明確に犯人は明らかにされなかったし、何よりそもそも「サングリアにLSDが入っていた」ということが事実として明言されてないんです。飽くまでも「誰かがサングリアに何かを、そう、LSDとかを入れたに違いない」という疑いを前提にして物語は進んでいくんです。

僕はうっかり鑑賞前にホームページとかであらすじを読んだので「あぁこのサングリアには薬物が入ってるんだ」と思いましたが、多分あらすじも何も知らずにこの映画を観ると、おそらく「え?結局あのサングリアのせいなん?」となる気がするんです。

最後の目薬のシーンも、仮にあれが普通の目薬でなくLSDだったとしても、それをサングリアに混入させた証拠にはならんのです。飽くまでもそのダンサーは所持しているだけ。

 

総評の最後に、この深読みをさらに疑り深いものにしてくれたものとして、映画鑑賞後に読んだギャスパー・ノエ監督のインタビューにあった、この一言を紹介しておきます。

 

「思春期の子供たち向けの映画です(笑)。あらかじめ彼らたちに、アルコールがいかに恐ろしいかを啓蒙するための映画なのです」

 

 

○最後に

現実でなく創造のうえで人間の持つ狂気や愛に触れられるという点で、作品を観るのが楽しいと感じる今日このごろ。謝辞として、今回こんなエキセントリックでセクシャルでバイオレンスな映画を観に行こうぜというとんでもな誘いに応じてくれた友人に本当に感謝です。あの後に電車や鳥貴族で語らえたおかげで、この衝撃的な作品をよりうまく消化できたように思います。ありがとね。

しかしながら、映画、いいなぁ。PrimeVideoなり映画館なりでもっと作品に触れてみたいってなった。あとは人間が台詞や身振りで表現するという意味で、演劇ももっと触れてみたい。

世の中、まだまだ知らないことが沢山あるね。死ぬまでは、知ろう。

 

それでは。

"AIでよみがえる美空ひばり"を観た感想文

※このブログは日頃文章にロクに触れていない人間が哲学を修めていないのに哲学っぽいことを語ったり心理学を修めていないのに人の行動心理っぽいことを語ったりする詭弁満載ファンタジーブログです。以下の「はじめに」を読んでご理解いただけた方のみ鼻でもほじりながら読んでください。

https://ttwa.hatenablog.com/entry/2019/09/04/210153

 

 

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どうも、TTWAです。

今回はタイトル通り、先日NHKだかでやっていた"AIでよみがえる美空ひばり"という番組を(途中からですが)観た感想をつらつらと書いていきます。最終的にはAIと人間と芸術とかそんな話っぽいことを語ったふりをします。

あと全部書きあげた段階で疲れたので推敲は一切していません。誤字脱字乱文許して。

今回の記事は約3600文字です。ではどうぞ。

 

(11/9 今更ちょっと追記)

私自身、大学院時代の研究室の同僚に機械学習とかをやっていた人がいたりしているので、少しは技術者的目線でAIは理解しているつもりです。反対に、だからこそわかりにくい技術者的表現も多々あるかと思いますが、そういうことです。許して。

(追記ここまで)

 

 

○"AIでよみがえる美空ひばり"の簡単なあらまし

この番組で行われたことは、「没後30年を迎える美空ひばりの歌声をAIの力で蘇らせる試みに挑むこと」。最新技術のAIを用いて美空ひばりの声や歌い方を徹底的に解析して、最終的には生前の代表曲"川の流れのように"を作詞した秋元康氏作詞の新曲をAIで蘇った美空ひばりに歌わせる。今までにも著名ですでに亡くなっているシンガーの歌い方をAIに学習させて自身の代表作を歌わせるという試みはあったそうだが、AIで再現したシンガーに新曲を歌わせる試みは遥かに難しいことで、相当な技術者の苦難と工夫でもって、最終的にAIが歌う新曲が聴く人を涙させる…。そういう感じでした。

 

○AIが歌を歌う時代へ

さて、ここではそもそも死者をAIで蘇らせるということに対する倫理的問題提起は置いときまして、僕が個人的に一番興味深かった「美空ひばりを学習し尽くした"AIの歌"が聴く人に涙させた」という点。全員が美空ひばりはすでに死没していると知っていて、そこで聴いているのは美空ひばりではなく美空ひばりを再現したものと理解したうえで、お客さんたちは涙しながら"美空ひばりの復活"を喜んでいたのです。

確かにAIの出来は素晴らしく、少なくともボーカロイドを用いて人が一生懸命打ち込んだ「人間っぽいボーカロイドの歌唱」と比べるとAIの学習による歌唱は遥かに自然で、AIであることを知らずに聴けば生身の人間と間違うことも有り得るクオリティでした。

もちろんそれはAIオリジナルの歌唱ではなく、強大なオリジナルである美空ひばりを模したものだからこそ有り得るクオリティだったのでしょうが、この企画を通して確実に、高い歌唱力を持ったAIによる歌手学習モデルが誕生したと言えるでしょう。

言い換えると、コンピューターの力で人工的に人を涙させるまでの歌唱をする"歌声"を作り出すことに成功した一例が生まれたと言えます。

 

○気持ちを込めれば気持ちの込もった演奏になる…はウソなのか?

僕自身吹奏楽部と軽音楽部を経験している人間なのですが、よく楽器演奏や歌において「感情を込めてやるんや!」という指摘を耳にします。確かに平坦で起伏の無い演奏、俗に言う感情の無い無機質な演奏は、それを目的としていない限りは非常につまらないものになってしまいます。しかし、逆を言えば抑揚や起伏がある演奏、感情的で有機的な演奏というのは"気持ちが込められている"と言えるのでしょうか。僕は今回のAIの歌で人間が涙したことによって、"演奏に気持ちを込める"だけを重視することは明示的にNOであることが証明されたと思っています。

例えば「大丈夫」という言葉を考えてみましょう。これを発音するとき、少し高めの声の高さで音量は少し大きめにはきはきと言えば、きっと問題がじきに解決するような前向きな「大丈夫」になるでしょう。一方で声を低くして音量を小さめに籠もらせて言えば、明らかに無理をしているような後ろ向きな「大丈夫」になります。

我々は常日頃、感情を表現したい(前向きとか後ろ向きとか)と思い、そのために声の高さや音量や発音の仕方を工夫して、その感情を伝わる形にしてアウトプットします。増してやアドリブではなく原曲の再現を行うようなジャンルの音楽においては、例えパフォーマーが演奏するその瞬間に何を思おうと表現したい感情が固定されており、できるだけメソッド化された表現手法を用いるのが常です。

ここから言えることは、"気持ちの込もった演奏"というのは決して文字通り気持ちを込めて成り立つのではなく、前向きを表現したいときは声高め音量大きめハキハキと発生するように、"気持ちが込もっているような表現技法を用いて演奏すること"で始めて成り立つということです。そのような表現技法をAIが修得できるということが、この番組ではっきりとわかったのです。

 

○"表現できるAI"による音楽の未来を考えてみる

この番組の成果物である"AI美空ひばり"によって、人を感動させるAI歌手の存在が証明されたこととなります。歌手が生まれたならば、あとは歌詞と曲とバックの演奏。これらがAIによって再現されることとなれば、歌詞から曲から伴奏から歌手まですべてがAIで完結する音楽が誕生することになります。

思うに、この体系が完成する未来はそう遠くないはずです。調べるのも面倒なので裏付けはしてませんが、確か「歌詞を入れたら勝手に曲を作る」みたいなのはすでに存在していたと思いますし、Twitterからツイートを学習して自動で呟きを作ったりするアカウントが存在し、今回の美空ひばりの前例から「音楽的表現をAIで学習再現することは可能」ということが楽器演奏にも当てはまるとすれば、一流の作詞家/作曲家/演奏家/歌手を徹底的に学習すればそれだけで曲ができるということです。また、マスタリング(超ざっくり言えば録った演奏全体を色々と整えてもっと聞こえよくする工程)を自動でするサービスもあります。仕上げまでAIでばっちりです。

SF的な感覚かもしれませんが、近い将来「声が低めの女性が歌う泣ける失恋バラード」とだけ入力すれば、AIが自動で作詞作曲演奏をしてマスタリングまで行って、世界で一つだけの声が低めの女性が歌う泣ける失恋バラードに涙する…みたいな未来がやってくるかもしれません。誰が作ったとか誰が歌ったではなく、そのときの気分に合ったように自動生成された曲を聴くことが当たり前になる。あるいはジャズなどの即興演奏もジャズの巨人たちのパフォーマンスを徹底的に学習したAIによって自動演奏され、その演奏に舌を巻く。「人間が演奏するからこそ~」というのが老人の戯言になる未来がやってくる。そんなことも決してありえなくはないと思いませんか?

 

○人間にしかできない"表現"とは何だろう

作詞も作曲も演奏もAIに表現され尽くす未来において、人間がペンや楽譜や楽器を手に取る意味はどこにあるんでしょう。言い換えると、人間にしかできない"表現"というのは何なんでしょう。

僕はその答えは"オリジナルになること"に他ならないと思っています。

例えば今回観たAI美空ひばりはまさに強大なシンガーである美空ひばりをオリジナルとしたものです。あるいは作詞や作曲や演奏を学習するうえでも、必ず膨大な教師データとして誰かの書いた文や誰かの書いた曲や誰かの演奏した音が必要になります。この"誰か"になることこそが、人間のみができることです。

勿論、AIが学習したことに多少の揺らぎを含ませることで単に学習したもののコピー以外を出力させ、それがオリジナルとなる…ということもあるでしょう。しかしながら、AIというものは常に学習の結果に縛られるものとすれば、常識を打ち壊すほどの強大な変化を与えられるのは人間のみです。この「すれば」が真か偽かはAIが充分に発達した未来にならないとわからないことですが、「学習結果を基にして」ではなく「学習結果を無視して」ものを生み出す力は、少なくとも今の時代においては、人間が遥かに強力なはずです。

society5.0が持ち出され、AIによる業務効率化、ひいては人間の仕事がAIに取って代わられる時代において、「オリジナルになること」こそが我々人間が人間らしくいる唯一の方法なのではないかと、思います。

 

○最後に

AIが充満した世の中では、人間らしさとは何かというのがより明確な問題として浮き上がるように思います。その時のために、「人間とは?」や「自己とは?」というものを少しでも自分の中で明確にしていくべきですね。多くの哲学者が挑んだ問いでもあるのでそう簡単なことではないはずなんですけども。

AI化した未来でも、人間が人間として生きていることを祈りつつ、そういう未来やそういう自分になれるよう、考え生み出し「オリジナルになること」を諦めずに生きていきたいもんです。

世界について考える回

※このブログは日頃文章にロクに触れていない人間が哲学を修めていないのに哲学っぽいことを語ったり心理学を修めていないのに人の行動心理っぽいことを語ったりする詭弁満載ファンタジーブログです。以下の「はじめに」を読んでご理解いただけた方のみ鼻でもほじりながら読んでください。

https://ttwa.hatenablog.com/entry/2019/09/04/210153

 

 

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どうもTTWAです。

今日は世界について考えていきたいと思います。

ここでの世界は「196カ国」というよりは、我々が今認識している「現実」を指したりします。何が言いたいかというと、ものすごく無実体な世界を考えていきます。

個人的な現時点での結論を先に書いておくと、「世界ってマジで無限にあるので頑張って常に認識していこうな」です。これで満足された方は鼻をほじるのをやめてブラウザをそっと閉じてください。

なお、本記事は約4900文字くらいです。前回の「ショーパブに行った25歳童貞が愛について考える回」は6000字程度でした。そんな感じの分量です。お前はショーパブについてどんだけ語っとるねん。

また、前回のように何かの衝撃から思索したというよりは日頃悶々と考えていることを文字に起こしただけなので、前回以上に話題があちこちに飛びます。許して。

では、やっていきましょう。

 

 

○「現象の世界」と「認知の世界」

今僕の目の前にはパソコンがあり、キーボードを打ってこのブログを書いています。同時に裏でYoutubeで流しているVulfpeckというバンドの曲をスピーカーが鳴らしています。

しかし、今自分の目の前に起こっているこれらのものたちに対して、果たして僕は正確に認識できているのでしょうか。

「いや目の前にあるんだったらそれで正解じゃないか」と思われるかと思いますが、実際僕の目の前にあるのは「何か発光している物体」「押すと某が入力される物体」「何らかの音波を発する物体」のみです。この「物体」とか「発光している」とかいう観念も正確かどうか怪しいです。

それは何故かと言うと、「私達は目の前に起こっている現象」を「何かしらの感覚器官等で認知すること」で、「今目の前の世界で何が起こっているか」を理解するからです。

これは言い換えれば、「現象」を"私の感覚"を媒介することで「認知」する、と言えます。

つまり、少なくとも今"私"の目の前には「現象がただある世界」と「"私"が認知した世界」が並行して存在するわけです。

 

 

○"緑色の葉っぱ"は本当に"緑色の葉っぱ"なのか?

小学生の時、校庭に植えられている木の葉っぱを見て、こう思ったことがあります。

「もし自分がこの緑色の葉っぱを"これは赤色の葉っぱだよ"と生まれてから今まで教え続けられたとしたら、僕はこれを"赤色の葉っぱだ"と疑いなく思うだろうか。」

当時何故そんなコトを思ったのかは自分でも本当によくわかりませんが、しかしこれは今思い返してもかなり興味深い疑問に思います。

何故なら、「何らかの色や形や質量をした存在があるという現象」を、"これは緑色で、葉っぱだ"という認識を持って「私の認知の世界」に投影する姿を、ありありと捉えているからです。

我々は"緑色"や"葉っぱ"というレンズを介して現象を覗き込むことで、ようやく「緑色の葉っぱ」を認知するに至るのです。逆に言えば、我々は「緑色の葉っぱだ」というレンズで覗き込むことでしか、その"緑色の葉っぱ"を自らの世界に現すことができないと言えるでしょう。

もし僕が小さな頃に読んだ絵本で"緑色"のことを"赤色"と教えられたら?きっと僕の世界においてそれは赤色の葉っぱになったのかもしれません。

 

 

○地球が平らだった時代

皆さんは地球がどんな形をしているか、知っていますか?

「馬鹿言え、そんなの球形に決まっているじゃないか」と皆さん答えるでしょう。幸い我々は多くの先人の研究や経験によって、この地球という現象の上では少なくとも重力に引っ張られながら真っすぐ進んだらどこかで一周することを知っています。

しかし過去にはこれと異なった認知が為されてきました。地球平面説というやつです。きっとどこかで聞いたことがあるでしょう、地球は平面でどこかに端があったり取り囲んでいる海は無限遠まで広がる、みたいなやつです。詳しくはWikipediaでも見てください。

ここではどちらかが物理的に真であるとかは語りません。めんどくさいので。

ただここで注意したいことは、ある時代には多くの人にとって確かに「地球は平面であった」ということです。そして現代に生きる多くの人にとっては「地球は球形である」ということです。

現象としての地球は少なくとも人間が誕生してからの期間では変わらず今の形を為しているでしょうが、異なる時代での「認知の世界」においては、地球は平面でもあり、また球体でもあったということです。

つまり、「地球が平面の世界」も「地球が球体の世界」も「地球がただ現象として存在する世界」も、確かに存在しているということです。

 

 

○「認知の世界」は無限に存在する

ここまでで語ったように、人は現象を何らかの形で認知することで、ものを「現象の世界」から「認知の世界」に落とし込みます。

また、その認知の世界も時代や教育などによっていかようにも変化します。

先程は"緑色の葉っぱ"や"球形の地球"などの比較的多くが同じ常識を持っているテーマで論じましたが、例えばそれが「パクチーサラダの味」だったとすると、パクチーサラダという存在する現象とは別に、さらに個人の感覚で「好き」「嫌い」「普通」とわかれるでしょう。また、僕はパクチーを食べたことがないので、僕の認知の世界においては「パクチーサラダの味」というのは存在していません。そして、この「パクチーサラダの味」を「森羅万象に関する何らか」まで裾野を広げたとすると、今まで生きてきた、今生きている、これから生まれる人間の数だけ無限に世界は誕生すると言えます。

このように、現象としての世界はいつだって一つですが、それを五感を通すことで無限に存在する「認知の世界」に落とし込まれるのです。

 

 

○「認知の世界」は定義する場所

現象の世界というのは、いつだって同じです。例えば人間は電気を見つけて文明を豊かにしましたが、別にそれは人間が電気という現象を生み出したのではなく、単にすでに現象としてあった電気を人間が見つけ出したに過ぎません。そういう意味では現象の世界は不変と言えるでしょう。

しかし、「認知の世界」というのは、いかようにも変化させることができます。先程僕はパクチーサラダを食べたことが無いと言いましたが、これを明日どこか梅田あたりの店を探して食べることができれば、僕の認知の世界に「パクチーサラダの味」は新たに誕生することでしょう。それが"美味しい"や"不味い"などのどれになるかは別として。

このように、今まで知らなかった新たな現象を知覚することによって、「認知の世界」にはあらゆる現象を偏見を介して定義することができるのです。

また、僕の「認知の世界」では現状「アイドルグループ」というのは全く興味の対象でないのですが(この理由は今回割愛します)、衝撃的な体験によって「アイドルグループ」が僕の認知の世界に定義され直して人生かけて大好きな存在になるかもしれません。

このように「認知の世界」は、自分でいかようにも定義し直し、作り変えることができる場所なのです。

 

 

○"自分の世界"は"自分"しか生きられない

我々は同じ世界に生き、共同して暮らしています。みんなそれぞれ助け合う小さな世界です。イッツ・ア・スモールワールドです。ハハッ。

しかしこれは現象的な、あるいは社会的な意味での世界のことです。認知の世界においては同じ世界に生きることはありません。何故なら私は私であって、自分の視界や味覚や認知はどうあっても自分のものであるからです。

言い換えると、"自分の世界"はどうあがいても自分しか生きることができず、その世界をよくするかどうかはすべて自分次第なのです。

もちろん他人の影響によって自分の世界が変わることはありますが、それは「他人からの影響」を「自分が認知すること」によって世界が変わっているのであって、結局自分の世界を変えられるのは自分の世界の創造者たる"自分"によってのみなのです。

 

 

○他人の"世界"を変えることは必要なのか?

自分の世界に自信がある人は、他人の世界を移す認知のレンズを自分のモノに入れ替えたがります。童貞に対して「風俗に行ってでもヤってこい」とか、メタルを聴いたことが無い人に対して「NWOBHM以外は音楽じゃないからな」とか、恋愛に生きる女の子が「彼氏いなくて生きてる意味あるの?」とか、毒親が「この進学校に通って東京大学に行きなさい」が、そうでしょう。

そういう人たちはこれらの言説を、あたかも他人のためであると考えがちです。

しかし、本当にそうでしょうか。この言葉たちは他人の世界を変えるための一言として機能させているのでしょうか。

その答えは、僕はNOだと思っています。僕にとっては、そういう人たちは「自分の世界に従属する存在を増やしたいだけ」に思えます。自分の中にある常識を押し付け、他人の世界を侵食し、自分の世界の領土を増やすことに躍起になっていると思えてならないのです。

そして、自分の世界の領土を広げることというのは、自分の認知に対して何も定義せず、何も定義し直していない点を考慮すると、全く自分の世界の変化にもなっていないのです。

認知することで築かれる世界にとって、領土を広げることは繁栄を意味しなければ、定義の停止というのはすなわち世界の停止であり、むしろ衰退することを意味すると僕は思っています。

他人の世界を侵略する暇があるなら、自分の世界をより良くするべきです。

そして、その自分の世界によって他人の世界に影響を与え、それによって他人がその人にとっての"自分の世界"を変えることを誘発していくべきです。

 

 

○"自分の世界"を良くするということ

自分の世界をより良くするためには、何をすれば良いのでしょう。

僕はそれを実現するためには、2つの鍵が存在すると思っています。

1つ目は、「認知の世界が無限にあることを知ること」です。つまりこれは現象を多角的に見ることを知ることです。地球が平面と思っていたという人や、パクチーサラダの好き嫌いがあることを認めることです。それらを決して無駄に攻め立てて相手の世界を侵略しないことです。多角的に見るとは、多様性を認めることです。多様ななかの自分の世界を見つめることで、自分の世界はより開けたものになるはずです。

2つ目は、「絶えず定義し、定義し直すこと」です。つまりこれは新たな目線を常に持って物事に触れることです。自分の世界にとって良いもののより良い部分を知り、嫌なものの中に隠れた良い部分を知ることは、定義して定義し直し続けることでしか起こりえません。また、何度定義し直してもダメだった場合はそれを自分の世界になかったことにすることもできます。そうして、自分の世界をより自分が住みよい世界に変えることができるのです。つきなみな言葉で言えば「ものは考えよう次第」です。しかし考えようを定義し直すことでものの見方を変えることもまた、肝要なように思います。

 

 

○最後に

今回は世界について思っていることをつらつらと書きました。なんかまとまらねぇし最後は説教臭い文章になりましたね。反省。

もちろんこの文章も絶対的なものではなく、僕の認知の世界の中にある経典を適当に読み上げただけにすぎません。しかしながら、これによって少しでも世界ってなんだろうという感覚がわかっていただけるといいなぁという、そんくらいの気持ちです。

 

今の僕の認知の世界にある経典にはこう書かれていると文章にしたためて知った以上、今の自分はこれを教訓にひとまず生きていこうと思います。

まずは自分の認知の世界にセックスとか彼女とかを定義しろよ、25歳彼女なし童貞よ。

 

 

 

ショーパブに行った25歳童貞が愛について考える回

※このブログは日頃文章にロクに触れていない人間が哲学を修めていないのに哲学っぽいことを語ったり心理学を修めていないのに人の行動心理っぽいことを語ったりする詭弁満載ファンタジーブログです。以下の「はじめに」を読んでご理解いただけた方のみ鼻でもほじりながら読んでください。

https://ttwa.hatenablog.com/entry/2019/09/04/210153

 

 

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久々に文章というものをしたためます。どうもTTWAです。

恐らくここを見に来てくださった方の大半は僕のTwitterから飛んできていると思いますが、色々と事情があってちょっと名前が違います。まぁ深い意味はないのでここではこう名乗っている、それだけ理解して見てくだされば。

 

さて、初回は今日僕が仕事中暇すぎて「愛」についてつらつらと考えたことを書き留めたいと思います。

愛と一口に言っても様々な愛が世の中にはあります。親愛、友愛、敬愛など…そういった多くのカテゴリの「愛」から、今回は「性愛」を軸に話を進めていきたいと思います。

しょっぱなからエロネタかい!!!!!と思うかもしれないですが、しょっぱなからエロネタきっかけの思考です。諦めてください。えっちなのはいけないと思います!!!の人は今すぐブラウザバックかスマホ電源落とすかしてシコって良い夢見てください。

 

さぁそろそろ前置きに飽きたので本題を書いていきましょう。

ちなみにふわふわ考えていたことなので結論らしいものはありませんが、先に強く思ったことを書いておくと、「性的サービス店で働く女の子マジですげぇ」です。よろしくお願いします。

 

 

○序文

つい先日の土曜日、知人の結婚式の3次会が終わった22時半くらいのこと。

共に式に参加していたとても面倒見が良い遊び人の先輩が僕に「おいお前このあと暇か?遊ぼうや」と、僕を引っ張ってタクシーに乗せ、運転手に一言「桜川までお願いします」。夜の桜川といえば、女の子遊びが好きな方には有名なショーパブだらけのビルがあります。ていうか夜の桜川なんてそれくらいしかありません。

そこで僕は、コレを書いている現時点で25歳童貞の僕は、人生で初めての"女の子の店"を体験したのです。

1万円を払って入場し、際どい衣装に身を包んだ(もはや包んでいないくらいだが)女の子にぱふぱふで代わる代わる挨拶をされ、ある時間帯では1000円払ってフルーツの口移しと胸揉みを堪能し、n千円払えばn分間奥の薄暗い空間のソファで二人でいちゃいちゃ…

金を払えばという条件こそあれど、イケメンも禿げたおっさんも等しく金を払って女の子に欲をむき出しにしている狂気の世界に、僕はひどく衝撃をうけました。というよりは、むしろ後に述べるように感銘をうけたと言ったほうが正しいかもしれません。

多分1日で7,8人くらいの女の子とキスをした25歳童貞の脳裏にはその後暫くその衝撃と光景が焼き付いて離れないわけなのですが、そこで偶然にも過去に同じ店に行ったことがあるという哲学専攻の友人が、ある風俗店のレポ記事で述べたこの一言を思い出したのです。

 

『アーティストはその詩の中でよく女の子を買うことを「愛を買う」と表現しますが、まさにそこにはお買い上げした「愛」がありました。それが刹那的であれ、世間一般に不純であれ、確かに感じたのです。 ── ゆがみちゃん

 

 

○性愛は最も強力な愛の形である

「愛」というものにも様々なカテゴリがあります。先程にも述べたような親愛、友愛、敬愛、そして性愛といったものがそれです。僕はこのなかで性愛こそが最も人間にとっての根源的な愛であると考えています。なぜなら、知能や思考力を手に入れた人間の持つ多くの社会的な愛と異なり、最も生物的な、言い換えれば本能的な、愛情であるからです。

人は他の大抵の動物と同じく、ずっと飯を食べないではいられないように、ずっと起きてはいられないように、性欲に関しても切っても切り離せない立ち位置にあります。もちろん精神的なショックで性に向き合えなかったり欲を断ち切るために性をシャットアウトする人もおりますが、大多数はどこかで性と向き合い、食欲や睡眠欲と同様なこの生き物としてのどうしようもない欲求に振り回されながら生きています。それほどに根源的な生き物の"性"にまつわる"愛"だからこそ、"性愛"はあらゆる愛の中で最も単純で、そして最も強力な愛情だと僕は考えています。

ここで、性欲と性愛を区別するものは何であるか?という疑問がおこります。強姦などの望まぬセックスもまた強力な愛情なのか?という声が聞こえてくる気がします。

僕が考えるには、その答えはNOです。なぜなら「愛」は、これは敬愛や友愛や親愛もそうですが、誰かにポジティブな効果を"与える"ことによって成り立つものであるからです。強姦や乱暴な性行為をする人にとっては性的行為は自らの欲を消化する行為にすぎず、決してそれは誰かにポジティブを与えるものではないからです。そんな奴は性器もげろ。

こういった一歩踏み外せば欲の消化に成り下がる性的行為を愛のステージに押し上げているという点も、性愛の持つ「欲を包含した愛情」という強力な性質を表しているように思います。

 

 

○最も偉大な"愛"を与える存在

ここまでで僕は「愛は与えるものである」「最も強力な愛は性愛である」と述べました。しかしながら、こんなことを言うと「俺は世界中の女を愛しているぜ」というキザな男たちが大量に現れ、愛の名の下に性欲のバーゲンセールを開始することでしょう。ちんこもげろ。

もちろん男性が与える性愛というのも愛情と欲を包含したものでありますが、ここで注意したい点は「そもそも生き物的に男性は性を振りまく存在である」という点です。

学説的な解説は微塵も読んだことがないのでどっかで聴いた話を受け売りする形で語りますが、一般的に雄という個体の本能は「たくさんの雌に種付して子孫を残すぞ~~」となっているため、数多くの個体に愛を与えることができるというのはある意味当然なのです。むしろその本心は「愛の名の下に種付をしたいだけ」なのかもしれません。脳みそちんちんかよ。もげろ。

では、女性はどうか?この雄の持つ本能と対比させると女性の持つ本能は「大量に寄ってくる雄から優秀な雄を、すなわち愛を与える対象を厳選する」と考えることができます。

もちろんTwitterで裏垢などを見れば男女問わず「抱きてぇ~~~(抱かれてぇ~~~~)」と性欲を呟くのを見ることができますが、多くの男がそりゃ美人良スタイルに越したことはないにせよそこそこ広い範囲で不特定多数の女性を指して言うのに対し、女性の多くはこの発言の前に(好きな人に)とか(イケメンに)とか(ちんちん大きい人に)とかの優秀と感じる相手を暗に置いているのではと思います。ハイパー偏見ですが少なくとも今まで見たことある人のうちの大多数はそんな感じです。統計的にどうとかは知らん、僕はそう思っているだけです。

しかしそれは、雄と雌がそれぞれに持つ本能の違いを考えると致し方ないというか、むしろこういう差が生まれるほうが自然なのです。

 

しかし、その中でも例外的で愛の化身とも言えるような存在があります。

ここで序文の話に戻りましょう。僕はショーパブでお金を払ったうえではあるものの7,8人くらいの女の子とキスをしました。その女の子たちは、勿論それが仕事なので当然と言えばそうですが、25年童貞をしてきた冴えない男の前でも嫌な顔ひとつせず、むしろ積極的とも言える態度で僕に接し、フルーツ越しや暗がりのソファで何度もキスをしたのです。この中に、僕は確かに「愛」を見たのです。友人の言葉を借りると『お買い上げした「愛」』が、確かにそこにはあったのです。

そして僕は、本来相手を厳選する本能をもつはずの女性があのビルの一室にひしめき合う男たちに等しく接する姿に、最も偉大な"愛"を与える存在を見たのです。

 

 

○ショーパブで得られるものは「愛」なのか?

ここまでの文章を見ると、ただ25歳まで童貞をこじらせた人がショーパブで骨抜きにされた話じゃねぇかと思う方もいるかと思います。実際そうだったりもします。

ここで、そう思う人の多くの理由は「ショーパブのキスは金を払って得たサービスであり、愛ではない」と断じるからでしょう。しかし、本当にそうでしょうか。愛というものは、金を払って対価として得られないものなのでしょうか。

ここで、お笑いや演劇を鑑賞するときのことを考えてみましょう。舞台に立つ芸人や役者は、舞台上である程度の台本が用意されたなかで面白いことを言ったり、悲しいセリフを叫んだりします。そのとき、私達観衆はこういった作り込まれた面白さや悲しさに共感し、胸を打たれ、笑ったり涙を流したりします。

これを思うと、僕にとって、ショーパブでキャストによって作り込まれ与えられた性愛に共感し股間から我慢の涙を流すことは、どうもある一つの「愛」に感じてならないのです。

お笑い芸人が舞台の上で不特定多数の観衆に面白さを与えるように、役者が悲しさを与えるように、彼女たちはショーパブという舞台の上で不特定多数の飢えた観衆たちに「愛」を与えていると言えるような気がしてならないのです。

 

 

○愛の本質

これらを踏まえて、愛の本質について考えたいと思います。

愛に関わる言葉のひとつに"無償の愛"という言葉があります。これは、「見返りを求めることなく誰かに施しを与えてより良い状態に導くこと」と解釈することができます。そうじゃないよと言う人もいるかもしれませんが知らん。この解釈が正しいものとしていきます。

ここで、無償の愛という言葉を"無償の"と"愛"に区切って考えることで愛の本質が見えるのではないかと思います。先ほどの無償の愛の意味を考えますと、"無償の"が指すところは「見返りを求めることなく」となります。ということは、愛の表すものというのは「誰かに施しを与えてより良い状態に導くこと」に他ならないのです。

これは、愛情という言葉を分解することでも成立すると思います。

情を文字通り"気持ち"と訳せば、愛情が意味するところは「施しを与えてより良い状態に導きたいという気持ち」になります。恐らくこの愛情の意味に対する解釈は、大抵の人が納得できるところだと思います。みんな納得したということにして話を進めます。

いくらか前に僕は愛について「誰かにポジティブな効果を"与える"ことによって成り立つ」と書きました。そして僕はショーパブで女の子たちから、偉大な"愛"を与える存在から、たしかに唇や肌を通してポジティブな気持ちを与えられたのです。これが「愛」と言わずして何と形容すればよいのでしょう。言うなれば有償の愛です。

大抵の人は「無償の愛以外は愛じゃない」と思うのでしょうが、僕はこのとき初めて、金を払って得られる愛があること、有償の愛もひとつの愛の形であること、そして有償無償に関わらずそこにある「愛の本質」を理解した気になったのです。

 

 

○"愛を与える"ということ

本記事では性愛を軸に愛についてそれっぽいことを論じましたが、ここで語った愛の本質というものは、性愛だけでなくあらゆる愛情に対して通用するものであると考えています。例えば家族愛をとっても、家族という対象に対する施し(それは家事をすることだったり、子供がした失敗を許すことだったり)を与え家族をより良い状態に導く様子を描いているものです。あるいは音楽愛に溢れた人は好きな音楽を好きであるだけでなく、誰かに布教したりあるいはライブに足を運んだりして、業界が盛り上がるように動いていくでしょう。

こうした愛の本質の中で最も重要なことは、「相手をより良い状態に導くこと」「相手にポジティブな効果を与えること」です。愛を与えることで相手が良い状態になるという相互作用が肝要です。

例えばカップルが喧嘩をしたときに女性が「こんなに私はあなたを愛しているのに!」と泣き叫んでいる光景を考えましょう。ここでは勿論男性の感受性が低く女性の愛に気づいていないという悲しい出来事が起こっていると想像できますが、一方で「彼女の与えた愛は決して男性をより良い状態にし、ポジティブな効果を与えることができなかった」と捉えることもできます。つまり、彼女が男性を愛したのは間違いないにしても、本質的な愛を与えることはできていなかったのです。

愛の本質を理解し、本当に愛を伝えたいのであれば、必ず愛は「私の思う形」から「相手にハマる形」に変質するはずです。一方でそれができていないのであれば、「愛を与えているつもり」であっても、結局は「愛を与える自分、相手に愛される自分」のために行為しているにすぎないのです。

そういう意味では、ショーパブや風俗で得られるものはある種の「プロの愛」と言えるでしょう。客の望む形に愛を変質させ、性愛を与えることで相手をポジティブな気持ちにさせる。これほどにまで本質的な「愛」を理解し、それを匠に操る人は他にいないと言ってもいいのではないでしょうか。

愛の相互作用を考える上で有用かもしれない思考のひとつとして、最近読んでいる哲学の本のなかで紹介されていた、18世紀のプロイセン王国(ドイツ)で活躍した、高校倫理の教科書にも出てくる偉大な哲学者イマヌエル・カントの一言を紹介します。

『あなた自身や、そのほかのすべての人の人格の内にある人間性を、単なる手段としてのみ扱うのではなく、つねに同時に目的として扱うように、行為せよ。』

勿論この一言は愛のために述べられたものではないと思いますし、彼のような偉大な哲学者をこんな記事に引用するなと世界中のカント研究者から罵詈雑言が飛んできそうです。こんなふ゛ろく゛にまし゛になっちゃってと゛うするの。

しかしながら、この一言を本記事で述べた愛の本質に適用するならば、ショーパブのキャストや風俗で働く女の子ほどの、"愛に飢えた客という人間性"を"単に稼ぐ手段"としてのみ扱うでなく、同時に"相手を悦ばせるために最適な形に愛を変質させて与える"ように行為する存在は他にいないのではと思います。

我々が愛情とは何かを考える上で、彼女らのような「愛するプロ」に学ぶべきところは多くあるのかもしれません。

 

 

○最後に

このショーパブでの経験は僕に「愛」とは何かを考えさせるもので、非常に強いインパクトを与えるものでした。

また、彼女らの唇やおっぱいの柔らかさもまた、僕の"僕"に非常に強いインパクトを与えるものでした。

 

夜の桜川、もう一度行きたいぜ。

 

 

 

[引用元]

ゆがみちゃん, "ゆがんだエンターテインメント 【R18】ちょっとアレな話その①" 

yugami-entertainment.hatenablog.com

彼の類稀なる文才から発揮されるアホな風俗レポは一見の価値ありです。

ぜひ御覧ください。

 

はじめに

このブログでは酒を飲んだ時や仕事中暇なときに考え事をした結果をここにつらつらと載せていきます。

何か人間の営みとか概念とかをテーマに考えて文字にすることが多いと思いますが、僕は工学部出身なので大学などで哲学を修めたわけではありませんし、何なら本をほとんど読まないので日頃活字に触れるのは仕事で読むマニュアルかTwitterくらいです。文字を書くなんて仕事中のメールかTwitterくらいでしか最近はしておりません。

なので文章がガバガバだったり、根拠のない出任せを真実のように語ったり、主張に一貫性がなかったり矛盾だらけだったり、誰かの思想と丸かぶりなんていうことも有り得ます。

ただまぁそれもその辺の(修士号を取った工学以外のあらゆる分野において)学を修めていない一般人が酒や暇の勢いでぼーっと考えたことをつらつらと書いているだけですので、ハイパースーパーウルトラアルティメット個人的意見として受け取っていただければ幸いです。

こんだけ言ってるので誰がなんと文句を言おうと僕は無視します。はい。

 

ひとりのとりとめのないことを考えがちな人の脳みその中を、少しでも楽しんでいただければ幸いです。